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TRPGにおけるデザイナの意図と遊び方(長い・・・)

 ずっと、もやっとしたものがあったのが少し晴れたのでここに記載。

 表題にある話をすると「遊び方なんで遊ぶ側の人(ユーザ)が楽しめればいいのだから関係ない(もしくは関係が少ない)」という人がいます。確かに間違いではない。そのゲームを作った人(デザイナ)や、外野(私とか(笑))がいくら騒いでも実際に遊んでいる人が楽しめなくてはしょうがない(※1)。そうすると、やっぱり、デザイナがどう意図するかは関係ないのか? と思ったりしてました。

 ところが先日、とある場所で雑談をしていたところ、「TRPGを開発する際にはターゲットとするユーザは想定するが、遊び方は想定しない。なぜかというと、遊び方を想定し、より面くなるような仕組み(ルールやワールドで)を設定しても、そこまで読み込んで理解しようつするユーザが居ない(か、少ない)からだ」という考えを聞きました。なるほど、このコンセプトで作られていると仮定すれば、遊び方はユーザが考えるしかないし、いくらルールを読みこんでも、無いものは解らない。しかも、上に書いた遊び方というのは、じつはデザインする際のコンセプトと一致していることになる。

 上の2つの事柄をまとめると、遊び方という点での「デザイナの意図」というのは幻想であり、存在しないものだった。いまは現状でうまく機能するようにユーザもデザイナも調整がなされている・・・・のでしょうか?

 少し考えてみました。遊び方が提示されない状態で、色柄(世界背景とかPCを表現するパラメータとか)の違うシステムが次々と供給されてきたとしましょう。じつは、それらを遊ぶ際に、全てのシステムで同じ遊び方をしていたりするのではないでしょうかと考えてしまいます。ファンタジーも、ヒロイックも、サイバーも、パンクなものも、いつもと同じようにキャラクターを作って、パーティを組んで目的を達成する・・・。そして、本質が変わってないためにすぐに飽きてしまう・・・そんな状態なのではないかと。

 遊び方そのものを開発するのは、色柄をいろいろ用意するよりも大変なことです。また、新しい遊び方を覚えてそれを実施するのも大変なことです。ユーザが必要としない(※2)のなら、デザイナも用意しない・・・コストなどを考えても妥当なことですが・・・本当に捨ててしまってよい部分なのでしょうか。

少し極端な例を考えてみました。
 トランプを買ってきました。すると、「ポーカー」と「ブラックジャック」と「神経衰弱」に関する遊び方をメモした紙が入っていました(よくあることです。)
 いろいろ試した結果、「神経衰弱」が名前がおどろおどろしい(※3)割には単純で面白いと思ったとしましょう。
 トランプで神経衰弱をするのも飽きたころ、「花札」を売っているのを発見しました。とりあえず購入し中をのぞくと「はなあわせ」と「かぶ」の遊び方が載っている紙が入っていました。
 付属の紙を読み込んで遊び方を覚えるより、絵柄的に「神経衰弱」ができそうだったので花札で神経衰弱をしました。みなもルールを熟知しているし、各カードの覚えるかたのコツなども変化して新鮮な感じです。
 最初盛り上がったものの、なぜかすぐに飽きてしまい、おもちゃ屋を覗くと、「麻雀牌」を売っているのを・・・・。

 ここの例で出した、トランプ、花札、麻雀牌といったものが、TRPGでのシステムやワールドに当たります。TRPGの遊び方は、この例では神経衰弱であったり、UNOであったり、かぶであったり4人麻雀であったりします。


 考えるに、個々で遊び方をどうするのかに関して、自由であるとは思う。ただ、それによって、それらが供給されなくなるというのは危機感を覚える。ユーザは遊び方を探すプロではない。個々で遊び方を考えるのは、デザイナがこう遊ばせたいと言うのを読み取って試してからでも遅くないのではないだろうか。せっかく、より面白いと思われる遊び方を真剣に考えて調整してあるものならば、その遊び方にしたがって遊べば、より楽しめるのではないかと思う。日本のTRPG市場がより発展するためにも、「デザイナの意図した遊び方で遊び、評価する」ということをお勧めしたい。

おまけ。
 もし、「TRPGのシステムなんて一種類あればいーじゃん。いろいろやってみても似たり寄ったりだし、覚える手間がかかるだけだ」と思うようであれば、もう少しルールブックを読み込んで見てほしい。最初に遊んだルールと次に遊んだルールでは違いがあると思う。それが何のための違いがあるのか。また、それによってキャラクターへの影響やRPする際にどんな違いが出てくるのか、もう1度考えてみてほしい。

※1 TRPGは楽しむために遊ぶ(Playする)してわけではない とゆー人も居ますので、一概には言えないのですがここで言う「TRPGを遊ぶ人」は「TRPGをPlayして楽しさを求める人」に限定しています。限定から外れてしまった方、申し訳ありません。
※2 購入する大半のユーザが必要としてない、もしくは、存在にすら気が付いていない状態を指してます。
※3 ほんとに、すごい名前です。間違うたびにPowerを吸い取られそうです。もしくは、めくるたびに消費するのでしょうか・・・。

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コメント

「そこまでするユーザーがいない」んじゃなくて「いないと見限られてるからそこまで遊びこもうとするユーザーが離れてく」んじゃないかなと推測。
猫じゃらしと同じでチラとでも面白そうな(興味深そうな)そぶりを見せられるとつい飛びついちゃうのは、何もカビの生えたユーザーに限った話じゃないと思うのですが……。
最近、とんとTRPGご無沙汰な私が申し上げるのもアレですが。
作り方、雑になってねーか?(汗)

投稿: 十海 | 2004/04/19 17:57

読まなくても、思ったとおりに遊べるとゆー点では、「遊びやすい」とゆー印象を受けるのかもしれません。ただ、どーとでも遊べてしまうよーです。「混ぜるな危険」だとばなな・・・じゃない、ばんぐる氏談。
(ShadowRunを遊び倒した人でも、EarthDawnをあそぼーもともったらルールもワールドもホラーリストも結構読み込まないといけなさそうではある・・・いや、ホラーは要らない、要らない・・・S=Fを遊んでいた人が、NWをすんなり遊べるのとはなにか違う気がするのです・・・)
(補足。ShadowRunとEarthDawnは時代の違う1つの世界であるらしい・・・さらに魔力が復活すると、黒曜石が動き出したり、羽蟲が飛び回ったりするんだ、きっと。)

投稿: うぇいく | 2004/04/20 00:16

羽蟲はものすごくものすごくしゃどうらんの世界に溶け込みそうですね…ファッションセンスとかもなじみやすそうだし。

根底にあるテイストは共通してるから、違いはあるけど遊びくらべる楽しさがある。
どれもこれも同じ味だと混ざってもわからないし、確かに飽きるのも早いやぁね★

投稿: 十海 | 2004/04/20 04:40

鏡と申します。よろしくお願いします。ご紹介されてから随分時間が経ってしまいましたが、書込に参りました。

うぇいくさんのこの文章と、当方のサイトでの意見交換がどういう関係にあるかはいまいち分かっていませんので、標題に関する意見のみ申し上げます。

まず注意していただきたいことは、「デザイナーの意図」という言葉が表すものには二種類あるということです。ひとつは「デザイナーがその作品に込めた意図」であり、もうひとつは「"その作品に込められている"とユーザーが解釈した意図」です。両者が同じである場合と異なる場合とがありますが、それを確認することは大抵の場合できません。(デザイナーズノートも、本当はあまり当てになりません。)

さて、あるRPGの「遊び方」は、ルールブックに書いてある「ルールシステム」や「世界設定」などを参考に策定されます。デザイナーの作ったものを用いるのですから、「デザイナーの意図」から独立したものではありえません。例えば、判定に「2D6を使う」ルールをそのままプレイに用いるだけでも、「2D6を使う」ことに込められた「デザイナーの意図」はなにがしか反映されるわけです。「遊び方」を探る際に「なぜ2D6なのか」を考えることはもちろん有用ですし、そこでのユーザーごとの解釈の差異によって、多種多様な「遊び方」が作られていきます。

これら様々な「遊び方」を選択肢として、自分たちの嗜好やその時の気分に合うものをプレイすれば良い、と私は考えます。しかしながら人によっては、それらを「デザイナーの意図」に合っているものと、そうでないものとに分けようとします。大抵は、「自分はデザイナーの意図通りに遊んでいる」という信念から、自分の考えと異なるものを「それは間違ったやり方だ」と糾弾するのですね。「このゲームはこうやって遊ぶべきだ」という教育や、それに基づく派閥化に使われるのであれば、むしろ「デザイナーの意図」通りか否かなど問わない方が良いと考えます。

いかがでしょうか。

投稿: | 2004/05/03 20:30

 「意図を読み取って、意図どおり遊ぼう。それ以外は間違いだ」ということではなく、「やっぱり自分で考えた方が面白かった」でもいいし、「考えただけで面白くなさそうだから、遊べるレベルまでいじりまわそう」でもいいと思ってます。ただ、1度考えて(できれば、試して)ほしいのです。

 また、読んだ人や、サークル単位で全然違う風に読みとっていることも間々あります。そしたら、「どっちが正しいか」ではなく、相手の読み取ったことを聞いた上で、自分で再度判断すればいいと思ってます。(日本語の誤訳などの場合、明らかに片方が間違っている場合も間々あるのが難点ですが。)できれば、「君は君、僕は僕。プレイスタイルが違うんだね。」で終わるのではなく、「相手が何を楽しんでいて、自分が何を楽しんでいるか」まで考えてほしい。その際での、「デザイナの意図」という、1つの共通(であるはず。実際は違っても)のものがあれば、意見を交換しやすくなると考えています。

(「他に遊んでいる人と比べる」という意味で、デザイナの意図を考え、意識して分けて考えることは重要だと思っています。「これはデザイナが意図していることじゃないかなと思う。これは自サークルのハウスルール。そしてこれは、私がマスターするときのローカルルール。」とか。全部1つにして「このシステムはこーゆのが普通だと思ってました」というのは避けたい。)

投稿: うぇいく | 2004/05/03 22:41

異なるものを比較する意義については賛成ですが、その対象を「デザイナーの意図」と呼ばないほうが良いと思うのですよ。どうしても「正解」を求める方がいて、何かと問題を引き起こすので。むしろユーザーに属する概念として比較した方が順調にいくというのが、実体験に基づく私の意見です。

# ここに書くのもなんですが、ウチの雑記13が随分モメたのも、結局それが理由だったわけですし。

ところでうぇいくさんは、なにかのゲームシステムで、これこそ「デザイナーの意図」だ!と感じたものはおありでしょうか?そういう具体例をあげて考えてみた方が、お互い理解しやすいかもしれません。

投稿: | 2004/05/03 23:15

書き手と呼ばれる職業の者から申し上げると…
私の場合はその文章を作成したときに自分で考えた事、込めた意味=意図 かな、つー気がします。
設計、基本理念、コンセプト。他にも色々な事はあるけど、受け手側を拘束する印象の薄い言葉を選ぶとするならやっぱ「基本コンセプト」あたりが妥当かな?
押しつけじゃないのよ、あくまで私はこーゆーことを考えて作ったのよ
好きに解釈するのも、アレンジするのは自由だけど原型との区別はつけてほしいな? って感じ。
……ぽん。「型紙」。
これが一番近いかも(笑)

投稿: 十海 | 2004/05/04 16:59

よろしくお願いします。>十海さん

デザイナー本人にとっての「デザイナーの意図」については、十海さんのお考え通りで宜しいかと存じます。

問題は、書き手と読者との間のコミュニケーションは、作品が介在する間接的なものでしかありえない、ということだと考えます。書き手が想いを作品に込め、読者はその作品からその想いを受け取ろうとする。しかし、想いそのものをやりとりしているわけではないので、両者が同じであるか否かを確かめる方法は無いのです。読者を拘束するどころか、伝わっているかどうかが、まず怪しいわけです。

ゲームの場合、「プレイして面白いか」という価値判断もありますから、こちらを優先すれば良いのではないか、というのが私の端的な意見です。

投稿: | 2004/05/04 23:50

…やっぱ書き手側も目一杯、伝える努力しなくちゃいかんですな。読者が「うるせーなーあんたが言いたい事はわかったからもーすこし静かにせい」ちゅ〜ぐらいに。
(TRPGの場合わ)
伝える事は難しいけどだからって伝え『よう』とすらしなくなったら終わりだものね。
なんか、鏡さんも、さっちさも、色合いは違うけど同じ事を目指してるよーな気がするです。
…あくまで私の私見だけどね。右手を出すか、左手を出すかの違い。手をさしのべている事は同じ。

投稿: 十海 | 2004/05/05 01:15

はじめまして、どわ といいます。
興味深いお話をされているので、横から口をはさませてください。
デザイナーの意図に関して、私が体験したことを書きます。
ある日、友人から「上海退魔行」のセッションに誘われました。
特徴として
1.PCは二つの職業を選択し作成され、職業ごとに設定された非常に強力なNPC(明星という)を後援者として得ます。
2.闇の勢力の明星など、沢山の明星が存在し、複雑な関係が設定されています。
ほかにも色々あるのですが、以上の点から、「これは交渉を楽しむ外交ゲームだ!」という結論にいたりました。GMとの私の間では。
パーティー内で仲間割れを防ぐために盟友キーワードという項目もあり、実際後日のセッションは成功しました。
しばらく後、コンベンションに参加した際、休憩時間にほかの参加者と「上海退魔行」の話をしたら、「アレってお使いシナリオになっちゃうよね」と切り捨てられてしまいました。
さらに後日、「途中で悪者をいいやつにするな」と先輩に叱られました。正義のヒーローをプレイしたい先輩には、見せ場の戦闘が無くなったのが不満だったようです。
色々考えた結果、「交渉」も私が見つけた要素に過ぎず、ほかに楽しみを見出す人もいれば、一つも見つけられない人もいる。重要なのは、セッション前に、シナリオの方向性について、ある程度の共通認識を形成しておくことであり、ルールだけでは不十分ということです。

投稿: どわ | 2004/05/08 16:42

今のプレイヤーや作っている人って飽きっぽい人多いししさしょうがないよ。
アニメとかゲームも短期で切り上げてはい次って感じで使い捨てが多いしさ。
そういうのに慣れてしまった人は飽きるのが早い。
アニメとかゲーム好きな人が興味を持って始める事が多いしそういうのはかなり影響してるんじゃない?
昔ならサプリ出して飽きさせないようにしていたけど最近ではサプリ出す代わりに新作って感じがする。
作るほうもやるほうも新鮮さがあっていいかもしれないけどそれだとヘビーな人は育たないと思う。
それでなくても今は娯楽が多いしオンラインゲームという強敵もいるんだしさユーザー持っていかれちゃうよ。

投稿: 八州美好 | 2004/05/08 17:28

うぇいくさんwrote
>1度考えて(できれば、試してほしいのです。

同感です。
こんなことがありました…

「サタスペ」を遊んだときのことです。
その日GMをしたのは、ゲーム歴の長い先輩だったのですが、「サタスペ」は初めてでした。
「サタスペ」はいくつかの興味深い特徴をもったシステムなのですが、そのひとつに「情報収集ルール」があります。
情報にはレベルが設定され、PCは0レベルから目標レベルまで、時間もしくは財布というコストを支払ってレベルを上げていきます。
私は、どこまで準備するかというところに意思決定を導入した面白い試みだと思いました。
ところがGMは、「これじゃゲームにならねえ」(情報が出揃うまでに時間がかかり過ぎる)と、すぐにルールを改変し、1ワーク(時間の単位)のコストで上げられる情報レベルを増やしました。
結果、すべての情報を完璧に収集し、準備万端のPCは、見事シナリオ目的を達成し、セッションは無事終了しました。
「サタスペ」ってイマイチだなという印象を残して。

投稿: どわ | 2004/05/08 17:38

プレイヤー(消費者)をTRPGに飽きさせないために、
新しい要素を持ち込んだゲームは以前からありました。
しかし、遊び方に対する説明が不足している。
「TRPGはなんでも好きなことができる!」という、自由度を前面に出した売り込み方が、失敗の原因ではないかと思うんですよね。
自由度を売りにするゲームってのも間違ってないと思うんだけど、結局、それぞれの消費者に依存した幅しか与えることはできないわけだし。
サプリメントをどんどん出してほしいというのには大賛成なんだけど、結局サプリをを買うのはルールを買った中の一部のひとに限られ、サプリメントが新たな消費者をつかむところまでいけなかったんだと…。

投稿: どわ | 2004/05/08 18:04

少し考えました。
X「TRPGはコンピュータのRPGに比べてキャラクターが何でも自由に行動できる。これがTRPGの面白さだ」
○「TRPGはコンピュータのRPGに比べて、自由にシナリオを作って運営できる。キャラクターの自由さは大して変らない。なぜなら、どちらにもワールドやシナリオから来る制限があるからだ(あと、マスターへの負荷とか)」

 ゲーム内で、意味のある行動であり、なおかつ、コンピュータではできなかったけど、TRPGならできた とゆーのは少ないと思われます。最初にTRPGを普及させたときのうたい文句がまずかったですね と。

投稿: うぇいく | 2004/05/08 21:24

私は、RPGにおけるプレイヤー(=PCの行動)は「自由である」と考えます。

しかしながら、参加者の都合から、「自由でない」状況が作られているのです。端的に言うと、「プレイヤーに自由にされたくないゲームマスター」と「自由に伴う責任に耐えられないプレイヤー」との利害が一致しているのです。それはそれで、ある種の「面白いプレイ」を目的とした結果成立したものですから、否定されるべきものではありません。現在の主流となっているものはこの構造ですし。

同様に、「自由である」プレイもまた否定されるべきものではありません。
# 余談ですが、現在私がまとめようとしている論考がこのことに関するものです。

投稿: | 2004/05/08 23:05

自由と我侭を履き違えたプレイヤーがTRPGをダメにした原因の一つではと思っている。
普通の人はそんな奴と一緒したらもうやりたくないって思うのが普通だし。
オンラインゲームでさえそれが理由でやめる人多いのに実際に顔をあわせるTRPGじゃ嫌さ倍増でしょ。
人同士でやるゲームだからコミュニケーション能力は大切だね。
最近特にオタク受けしそうなゲーム増えたしコミュニケーション能力の欠如した人がきちゃうのはしょうがないことなんだけどさ。
って本題と離れすぎちゃったかな。

投稿: 八州美好 | 2004/05/08 23:16

 否定はしないけど…やっぱ混ざりたいとは思わないな(汗)
 限り有る時間とお金を費やしてまでは。
(どちらが、とは申しません。私自身、その時それぞれで『自由志向型』になったり『非自由志向型』になるからです)

 ただ最近、痛切に感じるのは、どわさんのおっしゃるようにプレイヤーとマスターの間で「何を求めているのか」「私はこ〜ゆ〜ことをやりたい!」と、事前に意志を照らしあわせる事がものすごく大事なのだ、と言う事。

 トラブルは両者の意志疎通が充分に行われない時に生じますものね。『確実に』。案外、ちょっとした調整(妥協に非ず)で「もーこのゲームはやらねぇ(-_-;」となる事態は避けられる。どうしてもソリがあわない(求めるものの差異が埋めようがない)場合はすっぱり笑顔で別れる潔さってのも実は必要なのかも知れませんな…。

投稿: 十海 | 2004/05/08 23:23

 ゲームですから、想定された制限の中で自由だと思うのです。それは、ルールブックの記述であったり、マスターのシナリオだったりしますが、制限は従うものであり破るものではありません。破る(乗り越える)べきは障害です。その制限の範囲において、キャラクターをどう行動をさせようとするかは、自由だと考えます(マスターの能力に依存したりしますが。)
# そして、その2つが明確に記述されて無いあたりに問題があると考えています。ルールブックはともかく、シナリオによる制限とシナリオの障害の区別が、プレーヤーやキャラクターから判別ができない と。

投稿: うぇいく | 2004/05/08 23:38

最初にどういうプレイをするか、全員で確認しておかないと上手くいかない、ということは私も幾度かの失敗体験から痛感しております。特に昨今は「勝手なことをしてはならない」と教え込まれたらしいプレイヤーが多いようで、なかなか自由には遊んでもらえません。何も言われないなら「自由にやってはいけない」のが当たり前ということなのでしょうか。

ところで「自由」が対立するのは、「ゲームマスターによる制限」です。「自由」に伴う「プレイヤー自身による制限」は、しばしばそれと一致しませんので。それゆえ、「PCの行動を制限したいゲームマスター」にとって「自由」は憎むべきものとなるのです。

投稿: | 2004/05/09 00:12

 プレーヤーがキャラクターの行動を試みるのは自由ですが、マスターが制限としているなら、プレーヤーが従わないとゲームとして成り立ちません。それを「自由だ」と押し通すのは、単なるわがままであり、ゲームを崩壊させるだけです(マスターの能力不足や、マスターの思い描く無意識の前提条件の場合もあるでしょうが。)
 オセロにたとえるなら「相手の石が取れない(?)ところには置けない」というのはルールから来る制限です。TRPGではセッションごとに制限が異なり(ルール本体だけではなくシナリオによるため)ますが、同様ではないでしょうか。もちろん、始める前に「今回はどこでもおけるよーにしよー」とマスターが宣言しているのであれば問題ありません。制限と障害がシステムごと・セッションごとに結構容易に変るのはTRPGの特色だと思っています。

投稿: うぇいく | 2004/05/09 00:40

鏡さんwrote
>同様に、「自由である」プレイもまた否定されるべきものではありません。

まったく賛成です。
ルールからデザイナーの意図が読み取れない、もしくは私の遊び方にそぐわないって事もありますし。
ただ、遊び方は皆さんの自由ですよと言うばかりの作り手は信用できない。こうすれば俺の作品は一番楽しめるんだ!というぐらいの気概があって良いと思う。
実際、遊ぶ時には好きにやらせてもらうんですけどね。

こんなことがありました…

ある日友人が「秘神大作戦」というゲームをやろうと言い出しました。
どのようなゲームか聞くと、職業ごとに「忙しさ」というパラメータがあり、各PCの行動できる日数が限定されるとのこと。一般人が怪異な事件に巻き込まれるというコンセプトをルール化したもののようだが、忙しいPCはゲームから排除されているようで、賛同できない。
だが、忙しさという概念は、切り捨てるには惜しい。
そこで、忙しい日は場所を限定することにしてはどうかという結論に至った。
学生は学校、役者は稽古場と。そしてその場所で怪異な事件に関することがあっても良いではないかと。また、各PCに個別の目的を与えることもできるのではないかと考えた。

まだ実際に試してみたわけではないので、成功するかどうかわからないですが、私にとって、より魅力的なルールができました。

自分の作った料理にこだわりのない料理人は信用できないが、トンカツに醤油をかけようが、目玉焼きにマヨネーズをかけようが好きにさせろということです。

投稿: どわ | 2004/05/09 00:56

「ゲームシステム上の制限」にはゲームマスターもプレイヤーも従わねばなりませんし、そうしないとゲームは確かに成立しないでしょう。うぇいくさんの仰るオセロの例はこちらですね。

私が言う「ゲームマスターによる制限」は、ゲームシステム上は問題が無く、主にゲームマスターの考え方に基づくものです。オセロで「接戦をして欲しい」から「片方が四隅をすべて取るべきではない」と言い出すようなものです。

例えば、「接戦となるべきオセロ」(片方が四隅をとってはいけない)と「一方的勝負となるべきオセロ」(片方が四隅をとらなくてはいけない)とに分け、その時々にそれがプレイヤーに提示されるのも良いでしょう。けど、それは「プレイヤーの自由」でも良いと私は考えるのです。

投稿: | 2004/05/09 01:01

 TRPGにおけるセッションの制限について、マスターがシナリオの都合で考えた制限も、ルールが規定している制限も区別していません。すべて、そのセッションの際にマスターが採択した制限とて考えていますので、「ルールから」とか「マスターの都合で」という区別は考えてません。どちらも、そのセッションの間では同じぐらい重要だと考えます(あらかじめ知りやすいのは前者ですし、プレーヤの説得も前者のほうが楽でしょうが。)

 マスターが(無意識にでも)制限と考えていたことを、セッション中に(たとえそれが正しくとも間違えていても)プレーヤーが「自由だ」と言って変更することはできない というのが私の考えです。事前に取り決めるのであれば、どちらでもまったく問題ない(ルールブックのルールの変更も)のですが、それがセッション中に突然発覚した場合でも、制限として扱うと考えます。
 理由は、それを前提として準備したシナリオがうまく機能しなくなり、結果的にセッションが失敗する可能性が増加するからです。セッションの崩壊の危険を考慮した上で、マスターが制限を外すというのはもちろん可能ですが、私個人としてはあまり良い案ではない(マスターの能力に依存しすぎる。だれでもできるわけではない)と考えています。

 シナリオはゲームの1部であり、それをマスターが準備している以上、プレーヤー側にその点を「自由だ」と言って覆すことはできないと考えます(セッション後に指摘しましょう。「その設定は無理があるあら、開始前に説明するか設定を見直してくれ」と。)

# あと、「TRPGはゲームじゃない。共通の話題でわいわいと騒げればいいんだ」とゆーのもあります。それなら、ルールやら制限やら考えずに処理しましょう。全て無くとも騒げます。あとは、「雑段組。ゲーム組と混ぜるな」と明示しておけば完璧です。

投稿: うぇいく | 2004/05/09 01:40

自由といってもゲーム次第じゃないのかなー。
ダブルクロスみたいのはかなり行動制限されるけどそうしないとダブルクロスとして楽しめないからだし。
シナリオロイスが気に入らないから自分の好きなタイプのキャラにして設定も勝手に変えますよなんてのは問題外でしょ。
最近のゲームは一本道なシナリオでマスターの思い通りに進ませるゲームが多いから制限されるって感じが強いのかもね。
お約束がわかってないとついていけないのは辛いね。

ソードワールドみたいなゲームでも道が二つに分かれているけどどっちに行くみたいな自由はあってもいいけどそこで引き返して別の仕事請けますみたいな自由は認めたくないなー。
うぇいくさんの言っている制限ってこんな感じのだと思うんだけどどうなんだろう?
制限を制限と思わせないテクニックは数こなさないと無理だしある程度プレイヤーも我慢する事も必要だと思う。

投稿: 八州美好 | 2004/05/09 03:23

「セッション成功」と「セッション失敗/崩壊」という対立する概念は、これらを目指した結果「ゲームマスターによる制限」が生まれたのではなく、「ゲームマスターによる制限」を正当化するために作られたものだと私は考えています。ゲームプレイの面白さを安定させるためには、すべてゲームマスターが管理した方が良い、という理論です。要は、プレイヤーの自己管理を信用していないわけで、悪質なプレイヤー相手でも「期待通りのプレイが成立する」という長所があります。(私はこういうのを「収束型プレイ」と呼んでいます。)

逆に、プレイヤーとの間に信頼関係が築けるなら、プレイヤーの自由に任せても良いと考えるのです。(こちらは「拡散型プレイ」と呼んでいます。)

ところで八州美好さんが記しておられますが、「そうしないとダブルクロスとして楽しめないから」という発想は「デザイナーの意図」に基づく「制限」に類するものだろうと思います。「デザイナーの意図」という概念も、しばしば「ゲームマスターによる制限」を「ゲームシステムによる制限」の一部として正当化することに使われるのです。

投稿: | 2004/05/09 09:51

信頼関係だけですべてうまく行くのであれば、そもそも制限を含めてルールは必要ありません。お互いの共通認識が自然に制限として働くからです。が、それはすでにゲームでもありません。「だれが行っても、同じように楽しめる」必要があると考えます。
# 「話しているだけで面白いやつらを集めてTRPGをやったら、とても面白かった。このシステムは良くできていて、シナリオもすばらしかったんだ」というのは、何か違うと思うし。きっと、シナリオが無くとも、ルールなんて無くても楽しかったことでしょう。

また、信頼できるならプレーヤーの自由だ というのは、「プレーヤーが信頼できる(=マスターが思っている制限を無理に破ろうとしない)なら、自由だ」ということではないでしょうか?いま問題にしているのは、その制限を無理に破ろうとするのを自由として認めるべきかどうかだと思っていたのですが(そもそも破らない前提なら、制限として明示する必要はありません)単に、暗黙の制限に従ってくれているるだけに見えます。

投稿: うぇいく | 2004/05/09 11:59

「信頼関係だけでうまくいく」とは申しておりませんし、「ゲームマスターによる制限」もルールシステムも一緒くたに扱うのは乱暴だと思いますが…(^^;)。

「制限を無理に破ろうとする」という件について、質問させてください。うぇいくさんは「制限」をプレイヤーに明示しており、にも拘らずそれを「自由」と称して破ろうとされた、ということなのでしょうか?明示されない「制限」は故意に破りようが無いわけで。

あと、「だれが行っても、同じように楽しめる」ものでなければ「ゲーム」ではない、とお考えなのでしょうか?この点につき、私は違う考えを持っているのですが。

投稿: | 2004/05/09 12:56

マスターによる制限ってのがいまいちピンと来ないんだけどどういったものなんだろう?
プレイヤーの自由に任せるってシナリオなんか一切なく全てアドリブでプレイヤーが好き勝手にやるって事なのかな?

どうも私やうぇいくさんの考えている制限と自由と鏡さんの考えている制限と自由にずれがあるように思うんだけど。

投稿: 八州美好 | 2004/05/09 22:50

>八州美好さん
私が言う「ゲームマスターによる制限」とは、「ゲームシステム上は不可能ではないPCの行動などを、ゲームマスターが制限すること」です。グレーゾーンとなりうるものとして「シナリオ上の制限」というのもあるのですが、これについては省略します。

「自由」と「制限」につき、その考え方はあまり違っていないように私は思います。ただ、私は「自由に任せる方法」も「制限に合わせる方法」も両方肯定しており、片方を否定するのには賛成できないのです。

>各位
さて、こちらでの意見交換を止めて欲しい旨うぇいくさんから要請がありましたので、これをもちまして私の書込を終了させていただきます。有意義な意見交換を楽しませていただき、有難うございました。

ここで勉強させていただいたことも参考に、「拡散型プレイ」「収束型プレイ」に関する論考執筆を進めてまいる所存です。公開の折には、またご意見などいただければ幸いです。

投稿: | 2004/05/10 22:40

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受信: 2004/04/26 12:50

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